今回ピックアップするのは「ゴジラ」こと、元・プロ野球選手の松井秀喜さんです。
背番号55が今でも目に焼き付いていますね!
甲子園での「敬遠伝説」を引っ提げ、鳴り物入りで巨人へ。
2003年からは海を渡りアメリカ大リーグへ。
2012年に引退し、現在は「ニューヨーク・ヤンキースGM特別アドバイザー」を務めています。
現役時代の松井さんのはとにかく記録づくめ&伝説だらけ!
そんなスーパースターの生涯成績や年俸、そして「明言」と言われる語録などのこれまでを辿ってみたいと思います。
松井秀喜のプロフィールと略歴
引用元:https://www.sankei.com/sports/news/180827/spo1808270009-n1.html
生年月日:1974年6月12日
出身地:石川県能美郡根上町(現・能美市)
身長:188センチ
松井さんは1974年、松井家の次男として誕生しました。
なんと生まれた時の体重は4キロ近くあったそうで、すでにビッグだったことに驚きです!
その体格の良さは成長しても変わらず、小1の頃に野球チームに加入。
ところがまだ幼すぎて指示などが分からず、一度辞め、兄の影響で再び野球を始めたのは小5の時でした。
引用元:https://gendai.ismedia.jp/articles/-/67619
ここからゴジラ松井の野球人生が始まります。
中学校はもちろん野球部に所属。
続けていた柔道とどちらを取るか悩んだこともあったそうですが、柔道部がなかったこともあり、野球を選んだそうです。
中学の野球部のコーチであった高桑充裕さんはとにかく厳しかったことで有名でして…、いわゆる鉄拳制裁もあったとか。
ひと昔前の熱血先生という感じですね~。
引用元:https://ameblo.jp/koma-taka/entry-11524682610.html
しかし怖いだけでなく、高桑さんは星稜高校OBであったことから、松井さんのその後の進学に影響を与えたことは明らかでしょう。
高桑さんの勧め、星稜高校野球部の山下監督からの熱烈な勧誘を受け、1990年に星稜高校へ入学しました。
引用元:https://number.bunshun.jp/articles/-/43130
スーパースターは他の人とは違いますよ~、別格ですよ~。
なんと入部したての1年生が四番を務めます!
その存在感は徐々に野球関係者に知られていき「北陸の怪童」「星稜恐怖の1年生4番」などと呼ばれました。
ただ、野球はそんな単純なものではないので、松井秀喜がいるからといって簡単に勝てるワケではありません。
高1の夏の甲子園は初戦敗退、センバツは出場せず、高2の夏の甲子園は準決勝敗退、センバツは準々決勝敗退…と、意外なことに優勝はしていないんですよね。
そして、あの有名な事件が起こります…!
松井秀喜の敬遠伝説
敬遠伝説とも呼ばれる「5打席連続敬遠」事件が起こったのは、松井さんが高3の夏に出場した第74回全国高等学校野球選手権大会での出来事です。
引用元:https://www.huffingtonpost.jp/2017/06/24/matsui-shunned_n_17286092.html
2回戦で星稜高校は高知の明徳義塾と対戦しました。
この時、松井さんはすでに、誰もが知る超高校級のスター選手。
チーム自体も悲願の優勝を目指してかなりの実力を付けていて、優勝候補の一角に数えられていたため、松井さんと星稜への世間の注目はものすごいものだったと思います。
引用元:https://www.asahi.com/articles/ASLCD6S02LCDUTQP02T.html
対戦するチームはやりにくかったでしょうね~。
とは言え、試合は試合。
いくら相手があの星稜であっても、いつも通り勝利のために全力を尽くします。
そこで、明徳義塾の馬淵監督が採用した作戦が、全打席敬遠作戦でした。
やがて試合開始となり、その作戦が実行に移されます。
引用元:https://www.nikkansports.com/baseball/highschool/news/201908170000527.html
日本中が注目する松井さんの打席は全て四球、一塁走者がいても四球。
最初はどよめきだけだったのが、少しずつザワつき始める観客席…。
ザワめきは次第に明徳義塾へのヤジへと変わり、最終打席も四球に終わるととうとう怒号が甲子園を包みました。
引用元:https://www.asahi.com/sports/koshien/ano_natsu/special/
ブーイングの嵐、グラウンドに投げ込まれるゴミ。
そうした異様な光景を松井さんは憮然と眺めていたそうです。
試合結果は敬遠作戦が功を奏し、明徳義塾が勝利。
しかし試合後の握手はほとんどの星稜メンバーが拒否、明徳義塾への「帰れ」コールは長く続きました。
宿舎に戻った明徳義塾チームの元には嫌がらせや抗議の電話が殺到し、実際に宿舎までやって来て騒ぐ野球ファンもいたため、選手に危害が及びそうになり、警察まで出動したと言われています。
高野連は試合直後に異例の会見を開き、世間は騒然。
「勝つためなら何をしてもいいのか?」という議論が瞬く間に日本全国へ広がり、社会問題にまで発展しました。
引用元:https://twitter.com/
これが後世にまで語り継がれる、敬遠伝説の真相です。
松井さんの怪物ぶりが良く分かるエピソードですね。
松井秀喜”栄光の背番号55”の生涯成績や年俸は?
その後は皆さんご存知の通り、ドラフト1位指名で巨人へ入団しました。
引用元:https://number.bunshun.jp/articles/-/56839
契約金は1億2000万円、年俸は720万円、背番号は「55」。
のちに2003年に渡米するまで、松井さんは巨人で活躍します。
引用元:https://www.giants.jp/G/gnews/news_396963.html
渡米したあとの経歴は以下の通りです。
2003年~2009年 ヤンキース
2010年 エンゼルス
2011年 アスレチックス
2012年 レイズ
松井さんのトレードマークとも言える「背番号55」ですが、この番号は日米4球団でずっと付けていました。
最後の所属球団となったレイズで「35」を付けますが、これはプロ20年目にして初めてのことだったそうです。
ご自身も55に愛着があり、5は残したかったから35を選んだ、と語っています。
また、日米通算の主な生涯成績は以下の通りです。
試合数…2504試合
打席数…10562打席
打率….293(9014打数)
本塁打…507本
打点…1649点
安打数…2643本
他、NPB(日本野球機構)における主なタイトルなどは以下の通りです。
首位打者1回
ホームラン王3回
打点王3回
最高出塁率3回
最優秀選手3回
ベストナイン8回
ゴールデングラブ3回
日本シリーズMVP1回
2005年以降は故障に悩まされてしまいますが、2009年には日本人選手初となるワールドシリーズMVPに輝きます。
さらにこの出来事は「日本シリーズとワールドシリーズのMVPを共に受賞した初の選手」という快挙でもありました。
引退後の2013年には国民栄誉賞を受賞。
松井さんはまさに伝説の野球選手という訳ですね!
ちなみに…やっぱり気になるのはお金のこと。
日本で活躍していた頃の松井さんの最高年俸は6億1000万円。
メジャーリーグでは1300万ドル(1ドル100円換算で13億円)。
引用元:https://twitter.com/
日米通算での生涯年俸は約107億320万円と言われています。
さすが…としか言いようのない額です!
まとめ ~松井秀喜の明言を述懐
実は、何冊も本を執筆している松井さん。
名言が多いことでも知られています。
「自分にコントロールできないことは一切考えないですね。
考えても仕方ないことだから。自分にできることだけに集中するだけです。」
「終わりはないと思うんです。
一つ何かをクリアしても、その先にはまた一つ新しいテーマがある。」
「どんな道でも、進んでいけば嫌なことはいっぱいあります。
それでも、逃げないことだと思います。」
松井さんの実直な性格、野球への真摯な思いが伝わってきますね。
引用元:https://www.nikkansports.com/baseball/column/kunikaraheisei/news/201901110000087.html
巨人軍の次期監督!?なんて噂は尽きませんが、果たしてまた「55」を背負う日が来るのでしょうか?
そんな朗報を気長に待ってみます!